円安待望論と人生のほろ苦い味
続いて金融日記さんのブログ
(以下全文引用)
円安待望論と人生のほろ苦い味: "不況になってくると、どこからともなく円安待望論が聞こえてくるものである。
曰く、日本はソニーやトヨタ自動車のような輸出産業が支えているし、多くの雇用は製造業の工場が生み出しているのだから、これらの企業が競争力を高めるために円を安くしなければいけない。
円安で輸出産業が盛り返すことにより、景気がよくなり失業が減る、という主張である。
本当にそうであろうか?
結論からいうと、答えは否である。
なぜなら日本にはユニクロやニトリやABCマートのようなたくさんの輸入産業もあり、これらの会社もまた、ソニーやトヨタ自動車と同じように、日本国民の生活にはなくてはならないものだからである。
これらの会社は海外の工場からモノを仕入れて日本で売っているので、円安になると、仕入れ値が上がってしまい、それは販売価格に転嫁される。
そうすると消費者は、モノを安く買えなくなる。
円安は輸出産業にやさしく、円高は輸入産業にやさしいのだ。
そして、そのどちらも必要なのである。
だから、教科書的にいえば、円安も円高もよくなくて、通貨が市場で自由に取引されれば、円安でも円高でもないちょうどいいところに円の価格が落ち着くことになっている。
それでも、円安を待望する声はやまない。
最近のリフレ派の人達もそうだし、財務省はもっと積極的に為替介入して円安に誘導しろという意見もよく聞く。
そもそも現代のような巨大な為替市場で、政府が人為的にどの程度通貨をコントロールできるのかは大いに議論の余地があるところだが、とにかく政府に円安にしろという声が大きいようである。
こういう人たちは、昔の高度成長の時代の日本はよかったと思っていることが多い。
30年ぐらい前は、日本は欧米に追い付け追い越せで、みな猛烈に働き、毎年毎年、確かにどんどん生活水準が上がっていた。
みな経済成長を実感していたのだ。
あの時代に比べると今の日本は閉塞感がいっぱいで、お先真っ暗な気がしてくる。
しかし、ちょっと待ってほしい。
今の僕たちは、本当にあの時代より貧しいのだろうか?
今、僕たちはマクドナルドで1日中働けば1万円ぐらい稼げる。
この1万円で一体何が買えるのだろう?
ユニクロでジーンズを買ってもまだ9000円も余っている。
吉野屋で牛丼を食べてもまだ8700円も残っている。
100円ショップでいろんなものを山ほど買っても・・・
そうなのだ、僕たちはあの高度成長の時代よりも確実に豊かになっていて、本当にたくさんのモノを買えるようになった。
物価が下がるというのは、基本的にはいいことなのだ。
経済成長、経済成長というけど、肝心なのはGDPの変化率じゃなくて、ひとり当たりのGDPの絶対的な水準なのだ。
確かに何らかの手段で円を暴落させて、例えば1ドル200円ぐらいにして、日本のドルでみたGDPを5兆ドルから2.5兆ドルぐらいにたたき落とせば、また日本が輝いていた高度成長時代に戻れるかもしれない。
工場も中国や東南アジアからたくさん日本に戻ってくるだろう。
外国のモノは高くて買えないから、日本人はみんな朝から晩まで必死で工場で働き、外国にいろんな製品を買ってもらって外貨を稼がないといけないだろう。
そうすると確かに失業率は下がるし、今のニートやフリーターみたいな人はいなくなるだろう。
でも、本当にそれでいいの?
僕たちは、よくお金をたくさん稼いだり、お金をたくさん持つと不幸になるという話を聞かされる。
例えば、血のつながった兄弟が醜い相続争いを何年もしたり、離婚で慰謝料を争ったりとか、そういう話だ。
何十億円もお金を持っていた人が、いろいろトラブルを起こして5000万円しか貯金が残らなくて、そのことに絶望して自殺したという嘘のような本当の話まである。
それは確かにお金の怖さであり、お金がたくさんあっても幸せになれるわけなじゃいことの証拠なのかもしれない。
実は、僕自身も、お金をある程度稼ぐようになったり、ある程度持つようになって、幸せになったかというと、税金とかいろいろと気苦労の方が多くなったと認めないわけにはいかない。
全然お金がなかった時の方が幸せだったといってもいい。
人生の味ってやっぱりちょっとほろ苦い。
でも、よく考えてほしい。
本当に相続争いがそんなに大変で不幸なものだったら、どうして人はそれを続けるのだろうか?
相続争いを辞める方法はものすごく簡単だ。
「俺は1円もいらない。全部お前たちにやる」といえばいいのだ
お金にまつわる不幸やトラブルには、全て共通点がある。
本当にお金を全部誰かにあげたり、寄付したりすれば、すぐさま解決するということだ。
どんな手段を使おうとも、何人もお金を持っていない人からお金を取ることはできないのだから。
でも、ほとんどの人は無一文になることを選ばず、何年、時に何十年とくだらない争いを続けたりする。
日本の官僚の人達をみていると、高々2000万円とか3000万円とかの退職金を2、3回くすねる為に、50歳になるまで30年間も天下り先を作ったりするために必死に働いている。
つまり、ほとんどの人にとって、どんな醜いを争い続けようとも、また、どんなにくだらない仕事を続けようとも、そういったことに耐えて、少しでも多くのお金をもらった方が幸せなのだ。
そんなことを思ってないかもしれないけど、ほとんどの人はそういうふうに行動しているのだ。
僕自身も、ついさっきお金がなかった時の方が幸せだったといった。
じゃ、全財産を寄付して、明日会社に辞表を出してみる?
うーん、やっぱり今の方が幸せです。ごめんなさい。嘘をつきました。
円を安くするということは、僕たちがそこまでして大切にしているお金の価値を下げるということ。
人の人生をよく観察してみると、そんなことは誰も望んでいないことは明らかだ。
円は高い方がいい。
"
(以下全文引用)
円安待望論と人生のほろ苦い味: "不況になってくると、どこからともなく円安待望論が聞こえてくるものである。
曰く、日本はソニーやトヨタ自動車のような輸出産業が支えているし、多くの雇用は製造業の工場が生み出しているのだから、これらの企業が競争力を高めるために円を安くしなければいけない。
円安で輸出産業が盛り返すことにより、景気がよくなり失業が減る、という主張である。
本当にそうであろうか?
結論からいうと、答えは否である。
なぜなら日本にはユニクロやニトリやABCマートのようなたくさんの輸入産業もあり、これらの会社もまた、ソニーやトヨタ自動車と同じように、日本国民の生活にはなくてはならないものだからである。
これらの会社は海外の工場からモノを仕入れて日本で売っているので、円安になると、仕入れ値が上がってしまい、それは販売価格に転嫁される。
そうすると消費者は、モノを安く買えなくなる。
円安は輸出産業にやさしく、円高は輸入産業にやさしいのだ。
そして、そのどちらも必要なのである。
だから、教科書的にいえば、円安も円高もよくなくて、通貨が市場で自由に取引されれば、円安でも円高でもないちょうどいいところに円の価格が落ち着くことになっている。
それでも、円安を待望する声はやまない。
最近のリフレ派の人達もそうだし、財務省はもっと積極的に為替介入して円安に誘導しろという意見もよく聞く。
そもそも現代のような巨大な為替市場で、政府が人為的にどの程度通貨をコントロールできるのかは大いに議論の余地があるところだが、とにかく政府に円安にしろという声が大きいようである。
こういう人たちは、昔の高度成長の時代の日本はよかったと思っていることが多い。
30年ぐらい前は、日本は欧米に追い付け追い越せで、みな猛烈に働き、毎年毎年、確かにどんどん生活水準が上がっていた。
みな経済成長を実感していたのだ。
あの時代に比べると今の日本は閉塞感がいっぱいで、お先真っ暗な気がしてくる。
しかし、ちょっと待ってほしい。
今の僕たちは、本当にあの時代より貧しいのだろうか?
今、僕たちはマクドナルドで1日中働けば1万円ぐらい稼げる。
この1万円で一体何が買えるのだろう?
ユニクロでジーンズを買ってもまだ9000円も余っている。
吉野屋で牛丼を食べてもまだ8700円も残っている。
100円ショップでいろんなものを山ほど買っても・・・
そうなのだ、僕たちはあの高度成長の時代よりも確実に豊かになっていて、本当にたくさんのモノを買えるようになった。
物価が下がるというのは、基本的にはいいことなのだ。
経済成長、経済成長というけど、肝心なのはGDPの変化率じゃなくて、ひとり当たりのGDPの絶対的な水準なのだ。
確かに何らかの手段で円を暴落させて、例えば1ドル200円ぐらいにして、日本のドルでみたGDPを5兆ドルから2.5兆ドルぐらいにたたき落とせば、また日本が輝いていた高度成長時代に戻れるかもしれない。
工場も中国や東南アジアからたくさん日本に戻ってくるだろう。
外国のモノは高くて買えないから、日本人はみんな朝から晩まで必死で工場で働き、外国にいろんな製品を買ってもらって外貨を稼がないといけないだろう。
そうすると確かに失業率は下がるし、今のニートやフリーターみたいな人はいなくなるだろう。
でも、本当にそれでいいの?
僕たちは、よくお金をたくさん稼いだり、お金をたくさん持つと不幸になるという話を聞かされる。
例えば、血のつながった兄弟が醜い相続争いを何年もしたり、離婚で慰謝料を争ったりとか、そういう話だ。
何十億円もお金を持っていた人が、いろいろトラブルを起こして5000万円しか貯金が残らなくて、そのことに絶望して自殺したという嘘のような本当の話まである。
それは確かにお金の怖さであり、お金がたくさんあっても幸せになれるわけなじゃいことの証拠なのかもしれない。
実は、僕自身も、お金をある程度稼ぐようになったり、ある程度持つようになって、幸せになったかというと、税金とかいろいろと気苦労の方が多くなったと認めないわけにはいかない。
全然お金がなかった時の方が幸せだったといってもいい。
人生の味ってやっぱりちょっとほろ苦い。
でも、よく考えてほしい。
本当に相続争いがそんなに大変で不幸なものだったら、どうして人はそれを続けるのだろうか?
相続争いを辞める方法はものすごく簡単だ。
「俺は1円もいらない。全部お前たちにやる」といえばいいのだ
お金にまつわる不幸やトラブルには、全て共通点がある。
本当にお金を全部誰かにあげたり、寄付したりすれば、すぐさま解決するということだ。
どんな手段を使おうとも、何人もお金を持っていない人からお金を取ることはできないのだから。
でも、ほとんどの人は無一文になることを選ばず、何年、時に何十年とくだらない争いを続けたりする。
日本の官僚の人達をみていると、高々2000万円とか3000万円とかの退職金を2、3回くすねる為に、50歳になるまで30年間も天下り先を作ったりするために必死に働いている。
つまり、ほとんどの人にとって、どんな醜いを争い続けようとも、また、どんなにくだらない仕事を続けようとも、そういったことに耐えて、少しでも多くのお金をもらった方が幸せなのだ。
そんなことを思ってないかもしれないけど、ほとんどの人はそういうふうに行動しているのだ。
僕自身も、ついさっきお金がなかった時の方が幸せだったといった。
じゃ、全財産を寄付して、明日会社に辞表を出してみる?
うーん、やっぱり今の方が幸せです。ごめんなさい。嘘をつきました。
円を安くするということは、僕たちがそこまでして大切にしているお金の価値を下げるということ。
人の人生をよく観察してみると、そんなことは誰も望んでいないことは明らかだ。
円は高い方がいい。
"