【再掲シリーズ】「超」整理法(その1)
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ
(本件元記事)
世の中でワークシェアという名の「実質的な賃金カット」が、当然という風潮となってきた。現下の経済情勢では、あたりまえのことだと思う。
確たる情報は無いが、我が職場でも例えば「時間外労働を減らそう」という動きとなりそうである。これは、事実上のワークシェアであろう。一方で、やるべき仕事は減りはしない。よく若い人からも質問(苦情?)があるのだが、「仕事ができる(できた)人ほど、仕事が増える」状況だ。
であれば、何をなすべきか。それは経済学者にしてアルファブロガーの池田信夫氏に指摘されるまでも無く、「仕事の生産性」を向上するしかありえない。池田氏は↑で「「額に汗して働く」ことが正しく、それを「出し抜く」行為は不公正だという倫理観がみられるが、これは時代錯誤である。資本主義の本質は、他人を出し抜くことなのだ。」と言っている。
非常にきつい言い方をさせていただければ、「仕事ができる(できた)人ほど、仕事が増える」と文句を言う人は、サッカーの世界の言葉で言えばマリーシアが足りないのだろうと、私は思う。
個人的なことを申し上げる。
入社してから何年目だったか、4箇所目の勤務地。初めての東京勤務。私の上司は非常に厳しかった(今と違い時間外のしばりもなく、朝7:30から22時くらいまで仕事をするのが常態化していた)。隣席の1年上の先輩はウン年ぶりの現場勤務(海外帰り)。その人の面倒も見ながら、自分の仕事もこなさざるを得なくなった。
私はパニックに陥った。未処理や遅延の業務がどんどん溜まっていった。しかし、このような状況下誰が助けてくれるというわけでもなし。
むさぼるように同書を読み、書いてあることを一字一句実行した(なお、同書にあったアイデアの一部は、現時点では野口悠紀雄氏は使用を中止しているようではある。ただし、大所は変わらない。)。いつしか、仕事は何とか回るようになっていった。国内業務が不慣れな先輩とも仲良くなり、それは職場の業績も向上するという形で結実した。同職場には約4年居たのだが、二人とも「卒業」の暁には役付者に昇格させていただいた。
以来、私は約10年余一貫して公私共々「超」整理法を採用している(いまこうして打っているPCの棚の上にも「超」整理法が展開している)。おかげで、その間仕事上で大きな失敗は無かったと断言できる。「ものや資料が無くなった」ということもほぼ絶無だったと思う。
そのための一助に、「超」整理法はなり得ると思うのだが。
- リンクを取得
- ×
- メール
- 他のアプリ